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ついに旭川も最低気温がマイナスになった。今季は冬への準備が大幅に遅れている。9月の末から10月に入って急に次から次へと所用が出来て特に庭作業が全く出来ていないのだ。そのままにして冬を過ごしても、大きな問題が起きるわけではないけれど、春になって雪が融けた後を想像すると雪が降る前に作業を終わらせておく方が格段に楽なのだ。まあ当たり前ですが。忙しいのは嬉しいことなので不満はないが頭の回転が鈍ってきているので、忙しくなると何か忘れていないか心配になって落ち着かない気持ちになる。常にメモをしてメモを見ながら1日の行動を確認する日が続く。現役時代はどのようにして多くの仕事を処理していたのか、今は不思議に感じるくらいだ。深刻ではないけれど歳をとったと言うことを実感している。
東京に行ったら意地になってエスカレータの右側に立つ。特に都の地下鉄は地階深くを通っているので長いエスカレータで深く降りることになる。エスカレータには左側にきれいに一列になって気持ち悪いくらい整然と並んでいる。「エスカレータの乗り場近くが混雑しておりますので、○○の方へ回ってお並びください」と放送が入った。何で2列になってお乗りくださいと言わないのか。そこに私が右側に立つのだから当然、異常に目立つ。私が止まるのでその後ろから2列になる。それでも誰も私に文句を言わない。以前よりはエスカレータの乗り方について啓蒙ポスターが目立つようになったので、本当は1列は駄目なのだと気づいている人が増えているのだろう。高校生くらいの女の子達が右に立つ私のことを「あの人、左側に並ぶ事を知らないんだね」と話している声が聞こえた。大人の行動を見ていると、そう思うのは当たり前なので苦笑するしかない。三越デパートで待ち合わせをした時のこと。エスカレータの乗り口で店員がマイクを持って呼びかけていた。何と何と「混雑しておりますので2列になってお乗り下さい。」いやあうれしかったねえ。マイクを持ったお姉ちゃんが眩しく見えた。三越さんかっこいい・・・・・・。
また東京に来ている。今度は「楽天オープンテニス」を見に来た。錦織選手のプレーを見に来たのだが、私が見に行く前日に試合中「臀部の痛み」で途中棄権してしまった。前回2013年だったかなあ、まだ錦織選手が爆発的に有名になる前に見に来たときもベスト8の試合中に腰の痛みで途中棄権をしてしまった。ついていないなあ、また錦織選手のベストの試合を見ることが出来なかった。今回の楽天オープンは世界ランク3位のワウリンカ選手が体調不良から出場辞退。変わって第一シードになった錦織選手が2回戦で途中棄権。第三シードのベルディハ選手がまさかの1回戦負け。波乱の大会になった。それでも世界一流の選手の試合は迫力があって面白い。錦織選手が棄権したので観衆は減るかと思ったがその心配は目立たない程度で客席にはたくさんの人が見に来ていた。チケットは完売の筈だが満員ではなかった。勿論錦織選手が出ないので見に来なかった人は居るだろうがそれ以上に客席が空いていた。多分テニスは人気が出てきたのでチケットを多量に買い占めてインターネットで高く売ろうとするヤツがいたのだろう。錦織さんが負けたので高くても買おうとする人が居なくてその分チケットは売れずに客席は空席になったと想像する。次の日のチケットも完売。でも満席ではない。空席の分が悪い考えのヤツの損と考えると、「ざまあみろ」と奇妙にうれしく感じた。
台風が次から次とやってくる。しかも来る度に規模が大きくなっている。何回も被害を受けている地域の人たちが気力を失うことが一番心配だ。個人の力ではどうしようもないから自治体の支援が必要。ついに最低気温が10℃を下回てきた。峠では初雪の気配。このまま冬に突入したら・・・・・。最近はこんな事ばかり考えている。遊びに行っても旅行しても、ふっと自分ならどのような対策をするかばかり考えている。国会が始まって中継を聞いていると、経済優先、成果主義の政治がさらに強くなっていると感じる。そのような社会では人間の心が壊れる。日本人が長い間に築いてきた世界的な良い評判がだんだん消えていく気配を感じている。私の周りだけ考えていたら幸せそのものなのだが、多くの困っている人たちのことが頭から離れない。日本には「政治家」は居ない、居るのは「政治屋」だと新聞の社説で読んだ。悲しいことだ。昨日母の様子を見に札幌に行ってきた。100歳の誕生日が過ぎてますます元気に見える。私が息子だと認識していないがとても幸せに見えた。
ら抜き言葉を使う人が半数を超えたという新聞記事を見た。ことばの乱れを嘆く時の象徴的な「ら抜き言葉」。以前にも書いたが私は小さい頃からら抜き言葉を使っている。「明日学校に来れるかい?」という。「明日学校に来られるかい?」なんて言ったことがない。これを言葉の乱れと言うことに腹立たしい思いをしていた。私の知る限りではら抜き言葉は「方言なのだ」なぜ何年も反論が出ないのだろうと思っていた。方言の研究している学者は少なくても北海道の言葉を研究していれば、必ず突き当たる話し言葉の筈なのに・・・・。それでも自分からは反論せずに、まあ公の場でわざわざ意見を述べるまでもないとも思っていた。ところが今日の北海道新聞の読者の欄に載った。62歳の男性「ら抜き言葉は誤用ではない」82歳の男性「ら抜き 檜山では昔から」という見出しで意見を述べていた。やっぱりそうだろう。檜山だけではないよ。私が居た「赤平」も「旭川」もら抜き言葉だよ。この件に関しては自分では何も行動していないけれど、このお二人さんには敬意を表しよう。